先輩インタビュー

生い立ち~学生時代の思い出

医師になろうと思った背景を教えてください。
1956年生まれ。生まれは千葉市です。母親の実家が幕張にあり、隣に住む一人暮らしのおばあちゃんがよく遊びに来ていました。私が小学生の頃、そのおばあちゃんが病気になりました。けれども身寄りがありません。ある医師に頼んだらすぐ往診に来てくれたそうです。後で知った話ですけどその医師は奥山順三先生でした。千葉健生病院をつくられた千葉民医連の創始者です。直接は会っていませんけれど、遡るとそれが民医連との出会いといえるでしょう。両親は高校教員で、子どもに干渉せず自主性を尊重してくれました。高校では山岳部に入り会津駒ケ岳で夏合宿をしました。旅行が好きだったので、地方でもある仕事、どこにいてもできる仕事は何かと考えたときに、医師か弁護士だろうと考えました。こうだから医師になったという明確な美しい話はありませんでした(笑)。
  • 登山に目覚めた高校山岳部時代

    登山に目覚めた高校山岳部時代

浜松医科大学(1974年発足)の3期生だそうですね。1期生は中区布橋にあった女子短大の仮校舎で学んだそうですけど、矢部先生はいかがでしたか? どんな学生生活を送られていたんですか?
講義棟は半田山に完成していて、附属病院はまだ建設中だったと思います。単身赴任の教授が多かったです。教員の官舎でご馳走になったこともありました。カリキュラムは余裕があったと思います。浜医でも山岳部に入りました。顧問は、南極越冬隊員をつとめたこともある解剖学の箕岡三穂先生でした。穂高や槍ケ岳など、岩登りもあるハードな登山をしていました。他にも、社会医学研究会というサークルで柳原病院の先生の講演を聞いたこともありました。ボランティアサークル四つ葉で清明寮(児童養護施設)に行ったこともあります。アルバイトもしており、家庭教師をメインにやっていました。
  • 浜医大山岳部報「岩小屋」創刊号

    浜医大山岳部報「岩小屋」創刊号

多彩な部活・サークルに参加されていたんですね。大学病院以外の病院実習などはされていましたか? どんなきっかけで、またどんな考えでいろいろな病院に行かれたんですか?
民医連の病院では、まだできて間もない三島共立病院(当時は診療所)、山梨民医連、みなと医療生協にも実習に行きました。三島では聞間先生(現、生協きたはま診療所所長)と出会いました。中伊豆でしいたけ栽培に従事している人の振動病など、労災の問題にとりくんでおり、その調査が印象に残っています。聞間先生は当時から幅広くとりくんでいましたね。佐久総合病院にも行きました。若月先生にも一度お会いした記憶があります。
きっかけは、当時静岡民医連で医学生担当をしていた志田さんと知り合ったことでした。私も、将来どのような道へ進むかを考える上で参考にしたいと思いました。ちなみに、浜松佐藤町診療所ができた頃は医師と事務の当直があって、事務の代わりに当直をしたこともあります。初代の学生当直バイトです。
他にも学生時代の思い出はありますか? 先生は読書家ですが、当時からですか。
当時は本をあまり読んでいませんでした。よく旅に出かけました。ユースホステルを利用しながら北海道の登山を楽しんだり、6年の最後の夏休みには1カ月かけてギリシアやトルコを旅行したりしていました。シンガポールの乗り継ぎで寝坊しまして、地元の人に泊めてもらい何とか日本まで帰ってきました(笑)。

初期研修、船医を経て民医連へ

次に初期研修についてうかがいたいです。先生は、浜松医大の初期研修を選ばれたんですよね。
選んだのは第一内科の腎臓内科でした。本田西男先生という非常に厳しくかつ理解も示してくれる先生がおり、きちっとした研修ができると思って選びました。大学では週一回のカンファレンス、腎臓と神経、消化器のカンファレンスと、毎週の教授回診、それ以外にも抄読会などきちんとした研修が受けられました。2年目から医局派遣で聖隷三方原病院へ行きました。そこでは本当に自分で参考書を開きながら診療するという状況でした。一番覚えているのは、研修の初めに、大学病院で一回も握ったことのない胃カメラが入っていたことです。まだカリキュラムが整備されていない時代でした。三方原では、来たものは何でも診るのが当たり前でした。初めての心筋梗塞や不整脈の患者さんを目の前にして「頻発している、では何を使えばいいか」と、朝までモニターを睨んで対処しました。その頃は研修指導体制の整備が進んでいませんでした。3期生だと同じ医局の指導医がいませんでした。
それは苦労されましたね。3年目は船に乗られたとお聞きしました。
学生時代から一度は船医になりたいと思っていました。偶然、箕岡先生から気象庁の観測船を紹介されまして、乗船することができました。東京から出航してパラオを航海しました。次に第一内科本田先生の友人の先生の紹介で水産庁の漁業調査船「開洋丸」に乗り、南氷洋に赴きました。船乗りさんは健康なので、ほとんど病気しません。酔って怪我をした人の縫合ぐらいでした。釣りに興じるなど優雅な生活でした。毎日海だけ見ていると、人生観が変わるといいます。出世がどうでもよくなったといいますか(笑)。
  • 漁業調査船開洋丸

    漁業調査船開洋丸

船を降りられて民医連病院で勤められるわけですが、どんな経緯がありますか?
気象庁と水産庁、どちらも2カ月ずつの航海でした。航海と航海の合間に、小豆沢病院の先生からお誘いがありました。2度目の航海の後、そのまま小豆沢病院に入りました。今日まで民医連にいるきっかけとなりました。そこでは多職種協同の医療が普通に実践されていました。医師とコメディカルの関係がフラットで活気がありました。こういう病院もあったのかと新鮮に感じました。毎年のように初期研修医が入ってきたので医局に活気がありました。初期研修医の指導も担いました。
小豆沢病院は、もとは米軍基地の中に存在した東京自由病院がルーツでした。片山茂先生という医師が、最初の頃そこで医療に従事されていました。片山先生は、山梨民医連を経た後、静岡田町診療所の所長を担われました。
循環器を専攻されることになったきっかけは?
5年目の頃、小豆沢病院の方針で循環器の医師を養成することになり、東京都老人医療センター(現在の東京都健康長寿医療センター)で1年間研修させてもらいました。不整脈を専門とする指導医について、心電図の基本的な捉え方からカテーテル検査などを学ぶことができました。症例報告の指導なども充実していました。

三島共立病院とともに歩んで

そしていよいよ、今に至る静岡民医連時代が幕を開けるわけですね
せっかく循環器研修に出していただいたので、本当は小豆沢病院に恩返しをしなければならないのですけれど、ちょうどバブル時代で板橋志村の家賃が2万円も高騰するなどして、東京は自分の住むところではない、都会より田舎がいいなというふうに思いました。ちょうど平成元年に三島共立病院の井田医師(故人)から声をかけていただきました。当時の三島共立病院は48床を4~5人の医師でまわしていたので、外来、病棟、訪問診療と、病院の医療全体が見えるやりやすさがありました。救急医療も今よりずっと活発にとりくんでおり、胸痛で来た心筋梗塞、喘息の重責発作、吐血の緊急内視鏡などの印象が残っています。
今日の、三島共立病院の使命、役割についてお話しいただけますか
在宅医療の分野は、地域医療全体の課題として推進されており、時代のニーズとなりました。三島共立病院は開院当初から訪問診療、訪問看護にとりくんできました。病院ぐるみで在宅医療を構築してきたパイオニアであると言えるでしょう。今後の方向性として求められることは、大病院のミニチュア版ではないと考えています。もちろん高度基幹病院はなくてはなりませんが、それだけで医療は完結しません。三島共立病院のような中小病院の役割が鮮明になってきています。高度医療の分野が細分化されると、私たちのような病院が担える医療の領域が広くなってきます。いくつもの病気を抱えた高齢患者にいかにバランスよく医療を提供するか、そして長寿を全うするという意味での主治医機能を持つという役割を持つことになります。その他にも様々な機能が求められています。在宅復帰のためのリハビリ機能、そして緩和ケアです。がんの緩和はもちろん非がん疾患の緩和ケア、気管支・肺炎・尿路感染などの感染症をしっかりと治せること。さらに治療するだけではなく健康増進機能の役割を打ち出しています。県東部で5000世帯の健康友の会、県下で15000世帯の共同組織に支えられているとともに、その人たちの健康増進を担う役割を持っています。加えて、民医連のめざす無差別平等の医療ですね。無料低額診療事業を打ち出せること、差額ベッド料を徴収しない県内唯一の病院であるということにやりがいを感じています。打ち出せるものをたくさん持っています。民医連は医療と介護のネットワークを駆使できますから、その意味で仕事がしやすいところです。
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